慶長8年(1603年)長崎・酒屋町にサンチャゴ病院創立。同14年(1609)平戸和蘭商館設立される。将軍家光時代の寛永13年(1636)長崎出島の築造成る。幕府はポルトガル人を出島から追放、同18年(1641)平戸和蘭商館を出島へ移す(鎖国の完成)。蘭館医Jeuriaen
Hasselingh、外科を日本人に教える。長崎の名工・藤原九左衛門らが南蛮紅毛流の外科器械を製作。
慶安2年(1649)蘭館医カスパル・スハンベルゲル渡来、通詞 西玄甫らに紅毛医術を伝授(紅毛流外科興る)。同4年(1651)長崎・万屋町で開業の南蛮医栗崎道喜没(86歳)。承応3年(1654)向井元升「紅毛外科秘要」著わす。明暦2年(1656)Christovao Ferreira(ポルトガル人で拷問の末改宗し帰化、沢野忠安を名乗る)の遺稿を西玄甫が訳し、これを向井元升が著わし「乾坤弁説」と題し万治元年上梓。
寛文元年(1661)平戸藩医嵐山甫安、長崎留学。同2年(1662)天然痘流行(3.28まで死者2318人)。蘭館医アルマンス・カッツ来朝、嵐山甫安直ちに師事し外科を学ぶ。同6年(1666)杉本忠恵を幕医に採用。同10年(1670)西 玄甫、医業を開き西流外科を興す。延宝元年(1673)西玄甫、幕医に召される。
貞享元年(1684)長崎で疫病流行(死者7000余人)。同4年(1687)嵐山甫安、初めて兎唇手術を行なう。元禄元年(1688)蘭館医ホフマン来日、大通詞楢林春斎(鎮山)師事して外科を学ぶ(楢林流開祖)。同3年(1690)蘭館医ケンペル来日。宝永3年(1706)楢林鎮山「紅毛外科宗伝」を著わす。
正徳2年(1712)天然痘流行(翌年3月まで患者3000余人)、ケンペル「廻国奇観(海外奇聞)」を刊行。延享元年(1744)清人・李仁山、長崎にきて人痘種痘法を伝える。宝暦12年(1762)吉雄耕牛、長崎の甚太郎にカテーテルを模造させる。明和元年(1764)五島福江・有川・宇久に疱瘡流行。
明和4年(1775)チュンベリー、出島に上陸。同5年(1776)福江に麻疹流行。天明3年(1783)五島岐宿に疱瘡、寛政元年(1789)五島西島(現若松町)、同5年(1793)福江領内、文化5年(1808)有川江ノ浜にも疱瘡が流行した。
文政6年(1823)蘭館医シーボルト着任し鳴滝塾を開く(1824)。同12年(1829)シーボルト、日本追放令で長崎を去る。
天保10年(1839)蘭館医リシュール、牛痘苗を持参、楢林宗建、実地に試みるも善感せず。弘化2年(1845)福江で初めて種痘実施される。
嘉永元年(1848)蘭館医モーニッケ来日、日本に初めて聴診器を伝え、牛痘苗をもたらし翌年接種に成功。楢林宗建・吉雄圭斎、モーニッケの指導を得て種痘の普及に努力。市川泰朴・賀来佐一郎、島原で初めて種痘を実施。同3年(1850)長崎の木下逸雲・種痘巧者として天草に迎えられ、数千人に種痘を施こす。同5年(1852)〜6年(1853)五島各地に疱瘡、コレラ(とんころりんと称す)蔓延した。
安政4年(1857)オランダ海軍軍医ポンペ、第2次海軍伝習所医官として出島に上陸。長崎奉行所西役所で医学を開講、その後、大村町医学伝習所へ移り講義を続行。同5年(1858)長崎にコレラ大流行、忽ち県内から全国へ広がる。同6年(1859)ポンペ、長崎西坂刑場で死刑囚の死体解剖実習を行なう(受講者46人・シーボルトの娘イネもいた)。
万延元年(1860)長崎稲佐の遊女の検梅始まる(日本初の検梅)。
文久元年(1860)小嶋郷佐古の地に長崎養生所・医学所完成。同2年(1862)ポンペ帰国しボードウインと交代(長与専斎ら約100人が就学中)。同3年(1863)コレラ流行。
慶応元年(1865)養生所を「精得館」に改む。同2年(1866)ボードウィンに代ってマンスフェルト着任。同4年(1868)吉雄圭斎、精得館学頭医師に撰ばれる。