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長崎県の医療史
長崎県医師会広報委員会委員長
宿輪亮三
室町時代〜安土・桃山時代

今日の長崎県の医療は、いつから、どのような歩みを経て現在に至ったのであろうか一。それを知るには、今から約450年も前にさかのぼって、南蛮人が本県平戸に初めて渡来し県内各地を巡回、キリシタン伝導の傍ら病める地域住民に西洋式医療を施してきた、その足跡を検証してみる必要がある。

海外雄飛を試みて、国際貿易を口実に、植民地獲得に熱心であったポルトガル人が、鹿児島県種子島に漂着したのは天文12年(1543)の時である。以後、東洋の島国ジパング(日本)に伝来したものは異教キリシタンであり、また西洋医術の普及でもあった。ポルトガル人との貿易で天文19年(1550)本県平戸が先ず開港され、次いで永禄5年(1562)横瀬浦(現西彼杵郡西海町)、同8年(1565)福田浦(現長崎市福田本町)、同10年(1567)口之津(現南高来郡口之津町)を経て、元亀元年(1570)最終地・長崎浦(現長崎市)へ移り、ここを開港することになる。当時、長崎浦は深江浦とも呼ばれ、浜辺にはわずかの民家が点在するだけの一寒村であった。

アルメイダ碑長崎開港に先立ち本県に初めて西洋医術を伝えたのは、宣教師・医療伝導師のルイス・アルメイダであり、外科的技術は特に優れていたという。来日したアルメイダは豊後(現大分県)の府内(現大分市)で日本初のヨーロッパ式医学教育を行なった後、本県平戸へ入り度島、生月島、大村、有馬、島原、口之津、福田浦など巡回し布教と医療に従事。永禄9年(1566)冬の五島灘を渡り、五島藩主五島純定や島民の病気を治療、それまで祈梼などにばかり頼っていた島民から感謝される。同10年(1567)長崎浦を訪れ長崎甚左衛門純景の館の近くに布教所(現春徳寺)を設け、布教と医療を行った。春徳寺
こうして天正11年(1583)長崎の本博多町(現万歳町)にミゼリコルデイアの組(慈悲屋)がつくられ、癩病院・老人病院・孤児院など経営された。

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江戸時代

慶長8年(1603年)長崎・酒屋町にサンチャゴ病院創立。同14年(1609)平戸和蘭商館設立される。将軍家光時代の寛永13年(1636)長崎出島の築造成る。幕府はポルトガル人を出島から追放、同18年(1641)平戸和蘭商館を出島へ移す(鎖国の完成)。蘭館医Jeuriaen Hasselingh、外科を日本人に教える。長崎の名工・藤原九左衛門らが南蛮紅毛流の外科器械を製作。

慶安2年(1649)蘭館医カスパル・スハンベルゲル渡来、通詞 西玄甫らに紅毛医術を伝授(紅毛流外科興る)。同4年(1651)長崎・万屋町で開業の南蛮医栗崎道喜没(86歳)。承応3年(1654)向井元升「紅毛外科秘要」著わす。明暦2年(1656)Christovao Ferreira(ポルトガル人で拷問の末改宗し帰化、沢野忠安を名乗る)の遺稿を西玄甫が訳し、これを向井元升が著わし「乾坤弁説」と題し万治元年上梓。

寛文元年(1661)平戸藩医嵐山甫安、長崎留学。同2年(1662)天然痘流行(3.28まで死者2318人)。蘭館医アルマンス・カッツ来朝、嵐山甫安直ちに師事し外科を学ぶ。同6年(1666)杉本忠恵を幕医に採用。同10年(1670)西 玄甫、医業を開き西流外科を興す。延宝元年(1673)西玄甫、幕医に召される。

貞享元年(1684)長崎で疫病流行(死者7000余人)。同4年(1687)嵐山甫安、初めて兎唇手術を行なう。元禄元年(1688)蘭館医ホフマン来日、大通詞楢林春斎(鎮山)師事して外科を学ぶ(楢林流開祖)。同3年(1690)蘭館医ケンペル来日。宝永3年(1706)楢林鎮山「紅毛外科宗伝」を著わす。

正徳2年(1712)天然痘流行(翌年3月まで患者3000余人)、ケンペル「廻国奇観(海外奇聞)」を刊行。延享元年(1744)清人・李仁山、長崎にきて人痘種痘法を伝える。宝暦12年(1762)吉雄耕牛、長崎の甚太郎にカテーテルを模造させる。明和元年(1764)五島福江・有川・宇久に疱瘡流行。

明和4年(1775)チュンベリー、出島に上陸。同5年(1776)福江に麻疹流行。天明3年(1783)五島岐宿に疱瘡、寛政元年(1789)五島西島(現若松町)、同5年(1793)福江領内、文化5年(1808)有川江ノ浜にも疱瘡が流行した。

文政6年(1823)蘭館医シーボルト着任し鳴滝塾を開く(1824)。同12年(1829)シーボルト、日本追放令で長崎を去る。

天保10年(1839)蘭館医リシュール、牛痘苗を持参、楢林宗建、実地に試みるも善感せず。弘化2年(1845)福江で初めて種痘実施される。

嘉永元年(1848)蘭館医モーニッケ来日、日本に初めて聴診器を伝え、牛痘苗をもたらし翌年接種に成功。楢林宗建・吉雄圭斎、モーニッケの指導を得て種痘の普及に努力。市川泰朴・賀来佐一郎、島原で初めて種痘を実施。同3年(1850)長崎の木下逸雲・種痘巧者として天草に迎えられ、数千人に種痘を施こす。同5年(1852)〜6年(1853)五島各地に疱瘡、コレラ(とんころりんと称す)蔓延した。ポンペ顕彰碑(長崎大学医学部)

安政4年(1857)オランダ海軍軍医ポンペ、第2次海軍伝習所医官として出島に上陸。長崎奉行所西役所で医学を開講、その後、大村町医学伝習所へ移り講義を続行。同5年(1858)長崎にコレラ大流行、忽ち県内から全国へ広がる。同6年(1859)ポンペ、長崎西坂刑場で死刑囚の死体解剖実習を行なう(受講者46人・シーボルトの娘イネもいた)。

万延元年(1860)長崎稲佐の遊女の検梅始まる(日本初の検梅)。

 文久元年(1860)小嶋郷佐古の地に長崎養生所・医学所完成。同2年(1862)ポンペ帰国しボードウインと交代(長与専斎ら約100人が就学中)。同3年(1863)コレラ流行。

慶応元年(1865)養生所を「精得館」に改む。同2年(1866)ボードウィンに代ってマンスフェルト着任。同4年(1868)吉雄圭斎、精得館学頭医師に撰ばれる。

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