元年
(1868) |
慶応4・9・8明治に改元。
小島の精得館を長崎府医学校と改称、校長長与専斎、教頭マンスフエルト(10.17) |
2年
(1869) |
長崎府を長崎県に改む。(6.7)
長崎府医学校を長崎県病院医学校と改称。(7.9) |
3年
(1870) |
レウエン来日、長崎医学校教頭となる。(12.−)
大徳寺跡に県立梅毒病院設置。(10.下旬)
英国海軍軍医ニュートン来崎、丸山遊女に検梅実施、激しい反対・抗議起こる。 |
4年
(1871) |
戸籍法を定む。(4.4)
廃藩置県の詔発布。(7.14) |
5年
(1872) |
長崎医学校を第六大学区学校と改称。(8.18) |
6年
(1873) |
第六大学区学校を第五大学区学校と改称。(4.10) |
7年
(1874) |
更にまた同学校、単に長崎医学校と改称す。
西彼杵郡浦上村に赤痢流行(患者200人、死者8人)、ド・ロ神父、救護活動に従事。(7.−)
征台の役勃発で長崎病院を公兵員藩地支局病院に転用、長崎医学校を一時的に廃校。(10.12) |
8年
(1875) |
征台の役終結により藩地事務支局病院を長崎県の所轄とする。(4.31)
吉田健康、長崎病院長に任じられ、長崎医学再興の議が興る。(5.14) |
9年
(1876) |
県令
宮川房之、長崎病院内に医学場設置を示達。(3.28) |
10年
(1877) |
西南の役勃発。(2.15)
大浦外人居留地に海軍仮病院設立。(3.15)
大音寺に第一分遣長崎軍団病院を置く。(3.29)
以後18の寺院・83の民家にも軍団病院宿舎を置く。
長崎港口に女神避病院を設置。(9.下旬)
県令北島秀朝、避病院にコレラ患者を慰問、感染・死亡、享年36歳。(10.10)
長崎病院医学場を長崎 学校と改称許可。(12.10)
この年、長崎港を中心にコレラ流行(患者575人、死者272人)。
シーボルトの娘・楠本イネ、長崎・銅座町で開業(〜16年まで)。 |
11年
(1878) |
県下にコレラ流行、患者1,854人、死亡511人。(9.21)
長崎市街一円を長崎区とす。(10.28)
長崎 学校長兼長崎病院長に吉田健康就任。 |
12年
(1879) |
長崎医学校を県立とす。(1.20)
翌日、公立病院制の整備を達示。
小島郷大徳寺跡に長崎病院新築工事を起工。(4.−)
長崎病院雇レウエン帰国、フオツク来任。(6.−)
コレラ予防検疫のため西浜町にコレラ予防検疫事務所を開設。(7.9)
長崎港船舶検按規則を定め検疫実施。(7.10)
県下のコレラ患者5,585人、うち死亡2,469人。(9.20) |
13年
(1880) |
長崎病院長 吉田健康、初代長崎県衛生課長に任命される。(2.28)
大徳寺跡に長崎病院竣工。(8.−)
長崎港口・女神に検疫所(現長崎検疫所)を設置。(12.−) |
14年
(1881) |
旧長崎病院跡を改築、これを梅毒病院とする。(8.−) |
15年
(1882) |
医学校通則の制定により長崎医学校、甲種医学校に認定される。(5.27)
開業医・西 道仙、初代の長崎区会議長に就任。(7.9)
県下にコレラ流行、初発より9.14まで患者48人、うち死亡28人。(9.16) |
16年
(1883) |
長与専斎ら大日本私立衛生会を興す。 |
17年
(1884) |
南高来郡加津佐村に天然痘流行、使者40人。(1.1)
長崎で第一回医術開業試験施行。(6.中旬)
県令石田英吉、開業医組合設置法を布達。(8.19)
長崎医会を結成。(10.31)
長崎私立衛生会開催。(11.17、12.8) |
18年
(1885) |
長崎私立衛生会。(1.17)
長崎医会第一回通常会を開き会長に 吉田健康を選任。(2.25)
長崎県衛生会通常会。(3.21)
長崎区内でコレラ流行、患者800余人、うち死亡600余人。(7.−)
内務省派遣の北里柴三郎来崎。(9.21)
東大お雇い教師ベルツ来崎、長崎医学校を訪問。(11.24)
長崎伝染病病院を区内竹の久保に置く。(12.−)
|
19年
(1886) |
長崎医会第4回通常会。(3.−)
同5回通常会を開く。(6.15)
この年、県下に天然痘患者1,087人、コレラは1,927人発生。 |
20年
(1887) |
長崎私立衛生会。(1.8)
長崎医会開催。(3.15)
第五高等中学校医学部を西彼杵郡浦上山里村に置くことが決まる。(8.27)
|
21年
(1888) |
府県立医学校、大阪・京都・愛知の3校を除き、その他みな廃校が決まる。県立長崎医学校廃止、校舎・敷地は国へ移管。(3.31)
県令日下義雄、長崎周辺で土葬禁止。(7.1)
長崎県私立衛生会臨時会を開き、長与専斎来崎し講演、女神検疫所・口之津港を巡視。(7.18)
長崎縣聯合醫會を勝山小学校で開く。(12.1)
この年、初発から12.28まで県下の伝染病患者5,421人、うち死亡745人(腸チフス1,472人が最も多く、赤痢3,892人がこれに次ぐ。) |
22年
(1889) |
臨時長崎区議会、区立水道敷設案を可決。(1.22)
区長 金井俊行、水道敷設工事を県に委託。(1.25)
長崎区に市制施行、長崎市が誕生、人口5万4,502人。西彼杵郡北部医会が長崎医会より分離・独立。(4.1)
県、本河内高部水道敷設工事に着手。(4.22)
西彼杵郡内に赤痢流行、患者3,137人。(6.11)
長崎病院施療病室、市内新橋町元薬物試験場に移すことを広告。(9.−)
この年、長崎市内の赤痢患者350余人(死亡100余人)。 |
23年
(1890) |
日本私立衛生会長崎支会第1回常集会。(1.18)
初めて長崎県医会(長崎県医師会の前身)を開く。議長に 吉田健康(長崎病院長)、副議長に 西道仙(開業医)が当選。(2.1)
長崎医会、東京で開催の第1回日本医学会に出席する長崎県医会総代として吉田健康、西道仙を選出、長崎県医会をここに組織す。(3.−)
長崎医会常集会。(3.2)
南高来郡医会常会。(4.20)
県下のコレラ患者、初発より1,641人、うち死亡943人。赤痢も郡市で猖獗。(8.8) |
24年
(1891) |
長崎市本河内町高部水道工事完成、日本では横浜・函館に次いで3番目。(3.−)
早速、長崎では給水開始、工事費26万4,357円、専用申し込みはわずかに80戸。(5.16)
長崎・伊良林郷にコレラ発生。(8.18)
以後十善寺郷・築町・浪之平・丸山町に流行。
西彼杵郡浦上山里村に建築中の第五高等中学校医学部校舎の一部完成。在来の小島の医学校は分教場とし、主として4年生の臨床講義用とする。(9.11)
長崎市内の赤痢、初発より5.29まで110人、うち死亡33人。(10.26) |
25年
(1892) |
第五高等中学校医学部、浦上山里村の敷地で新築落成式を挙行。(3.7)
竹之久保町の県立避病院、長崎市へ移管される。(4.−)
長崎医会を開く。(6.2)
研瑤会設立。(7.15)
ベルツ来崎。(9.11) |
26年
(1893) |
初めて長崎市に電灯がつく、供給戸数68戸、取り付け灯数129灯。(4.1)
第2回九州医学会を長崎市交親館で開く。(4.28〜30)
長崎県地方衛生会。(7.4)
この年1月以降、12.15まで県下の伝染病患者6,711人
(赤痢5,441、痘瘡952、腸チフス318)。 |
27年
(1894) |
長崎医会。(2.16)
南松浦郡岐宿村衛生懇談会。(4.8)
同富江村衛生懇談会。(4.12)
同崎山村衛生懇談会。(4.16)
日赤長崎支部設立。(6.12)
政府派遣の 北里柴三郎(伝染病研究所長)、香港でのペスト流行実地調査の帰途、長崎に立ち寄る。(7.25)
長崎でコレラ防疫に挺身中の警官、感染し殉職。(7.27)
日清戦争勃発。(8.1)
同日、政府派遣の青山胤通(東大教授)、香港ペスト調査を終えての帰途、長崎に立ち寄る。第五高等中学校医学部を第五高等学校医学部と改称。(9.11)
この年、県下の天然痘患者696人。 |
28年
(1895) |
口之津船舶検疫所開設。(4.−)
日清戦争終結。(4.17)
吉田健康、日見峠を越え蛍茶屋に凱旋。(6.19)
県下のコレラ患者、初発より1,717人、うち死亡1,189人、患者の3分の1が西彼杵郡内住民。(9.30)
コレラは猖獗、1,748人、うち死亡1,220人に達す。(11.20) |
29年
(1896) |
長崎市医会、規約・施療規約実施。(1.−)
中断状態の長崎県医会再興の協議をなす。(5.17) |
30年
(1897) |
第5回九州医学会を長崎市栄之喜座で開く。(3.4〜6)
長崎入港の福岡丸船客にペスト患者発生。(6.4)
県下郡市の赤痢患者、8.20〜30まで79人、うち死亡6人。(8.30)
長崎県医・市医会長 吉田健康死去。(9.3)
長崎県医会を大村町商人集会所で開き、会長に 栗本東明を選任する。(11.21) |
31年
(1898) |
長崎市に初めて学校医を置き、初代学校医 吉田寅次郎就任。(8.10)
医会事務所を東中町60番戸に置く。(8.15)
長崎県医会役員会。(10.24)
大日本医会長崎地方部会。(11.23)
長崎県医会を大村町商人集会所で開き、会長に 大谷周庵を選任。(12.10)
医会事務所内に私立長崎医学校設置願い許可される。(12.28)
この年、長崎市に伝染病患者303人、うち赤痢は66人(死亡13)、腸チフス29人(死亡13)、痘瘡7人、狷紅熱2人、コレラ2人(死亡2)。 |
32年
(1899) |
私立長崎医学校、開業医試験合格をめざし授業開始。(2.13)
長崎市内に初めて電話開通、加入者はわずかに191人。(4.1)
女神検疫所常置となる。(4.13)
長崎入港の日本丸船客がペストで死亡。(5.26)
長崎尋常小学校(勝山町)児童1,500余人にトラホーム検診を行ない、患者620余人を発見。(7.−)
この年、長崎市内の伝染病患者148人、うちジフテリアは90人、腸チフス24人、痘瘡23人、赤痢11人。 |
33年
(1900) |
市医会、規約発表。(1.1)
市医会総会、会長に大谷周庵、副会長に村瀬三英を選任。(3.11)
市医会役員改選、会長 田代 正、副会長 桜井三之助。(12.22)
この年、長崎市内の伝染病患者251人、うち腸チフス152人が最も多く、赤痢は22人。一方西彼杵郡では伝染病患者195人、ここでも腸チフスが最も多く(128名)、赤痢は55人、コレラも3人に発生。 |
34年
(1901) |
市医会総会を袋町共楽亭で開き、会長に大谷周庵、副会長 村瀬三英を選任。(3.8)
長崎市で内務省医術開業試験施行。(4.−)
第五高等学校医学部を長崎医学専門学校と改称。(4.1)
田代正が校長に就任。(6.5)
長崎県医会総会(11.30、大村町貿易集会所)
会 長 |
田代 正 |
副会長 |
桜井三之助 |
幹 事 |
村瀬三英、大橋 純、牟田口正道 |
常議員 |
岩島、見明、佐伯、麻生、松崎、梶原、中尾、
岩永(左)、岩永(栄)、中村、中尾、田中、原田、
小代、村岡、岩永(恒)、黒田、公文、保利、宮崎 |
この年、長崎市内の伝染病患者243人
(腸チフス128、ジフテリア58、赤痢53、痘瘡3、猖紅熱1) |
35年
(1902) |
県立長崎病院開院式を浦上山里村の地で挙行。(4.−)
東彼杵郡佐世保村を廃し、佐世保に市制を敷く。(4.1)
旅順帰りの長崎入港の船客、コレラを持ち込む。コレラは忽ち全市内に流行する。(7.8)
馬込郷(旧浦上警察署跡)に長崎細菌検査所建設着工。(11.20)
この年、長崎市内の伝染病患者938人
(コレラ748、腸チフス89、ジフテリア58、赤痢40、ペスト2、猖紅熱1) |
36年
(1903) |
長崎市本河内低部貯水池、西山低部浄水場・同配水池完成。(1.−)
4月下旬から配水の運びとなる。
長崎市稲佐郷にペスト患者発生。(5.25)
長崎市医会(県医会)事務所、東中町60番戸から金屋町2番戸に移転(9.−)。
上長崎村にコレラ患者25人発生。(10.−)
この年、長崎市内の伝染病患者258人
(コレラ111、腸チフス73、ジフテリア60、赤痢13、痘瘡1) |
37年
(1904) |
日露戦争勃発。(2.1)
第11回九州沖縄医学会を長崎市交親館で開く。(3.12〜13)
長崎県医会を開く(11.13)。
会 長 |
田代 正 |
副会長 |
大谷周庵 |
理 事 |
牟田口正道、大橋 純、二宮辰一郎、村瀬三英 |
県立長崎病院養成看護婦第一回卒業式。(1.24)
県下の伝染病患者、初発以来10.2現在、赤痢606、腸チフス306、ジフテリア182、痘瘡790、計1,884人。この年、長崎市内の伝染病患者は天然痘447人、ジフテリア56人、赤痢52人、腸チフス29人、計584人。 |
38年
(1905) |
長崎県医会第4回医術講習会。(2.20〜23)
この年、長崎市で伝染病患者154人
(ジフテリア60、赤痢59、腸チフス33、痘瘡1、猖紅熱1) |
39年
(1906) |
長崎県医会、大村町商人集会所で開く。(4.16)
会長に 田代正、副会長に大谷周庵を選任。医師法発布。(5.−)
医師会規則公付。(11.17)
この年、長崎市で伝染病患者178人(腸チフス99、ジフテリア45、赤痢34)。 |
40年
(1907) |
7.9長崎市医師会臨時総会(長崎市医師会設立)。北里柴三郎来崎。(10.14)
県下の伝染病患者、初発より9.17まで、コレラ29、ペストは11.27まで25、赤痢は9.2まで309、腸チフス329、ジフテリア196。長崎市内総児童数1万1,000余人中トラホーム
3,879人(35%強)、当局、その撲滅に苦悩。 |
41年
(1908) |
東大眼科教授 河本重次郎来崎。(4.5)
この年、長崎市内の伝染病患者175人
(腸チフス77、ジフテリア47、痘瘡26、赤痢21、猖紅熱4) |
42年
(1909) |
長崎県医師会設立役員会。(2.8)
同臨時通常会。(2.15)
2.20総会を開き県医師会設立の件を建議し可決(長崎県医師会設立)。
会 長 |
田代 正 |
副会長 |
村瀬三英 |
理 事 |
大谷周庵、高畑挺三、大橋 純、
公文良能、原口謙爾 |
長崎県医師会役員会。(3.3、4.23)
第15回九州沖縄医学会。(5.1〜2)
長崎県医師会役員会。(11.23)
同総会。(11.26)
この年、長崎市内の伝染病患者234人
(赤痢129、ジフテリア65、腸チフス38、猖紅熱2)
同市内小学校児童のトラホーム罹患率、立神小65.93%、銭座小60.49%。 |
43年
(1910) |
県衛生課主催・虎眼(トラホーム)講習会。(6.17)
県医師会幹事 高畑挺三没。(9.1)
県下の赤痢患者、初発以来10.1まで1,086人(死亡236)。
県医師会総会を大村町商人集会所で開催。(11.26) |
44年
(1911) |
県医師会総会を出島内外倶楽部で開催。(11.27)
会 長 |
田代 正 |
副会長 |
村瀬三英 |
理 事 |
大橋 純、原口謙爾、富田愿之助、公文良能 |
この年、県下の伝染病患者1,802人
(赤痢が最も多く、郡市別では西彼杵郡に多発) |
45年
(1912) |
長崎医学会総会。(2.17)
大谷周庵、離崎し東京へ移る。(5.7)
長崎市医師会(県医師会)事務所、金屋町2番戸から袋町39番地へ移転。(5.18) |