11年
(1936) |
長崎市医師会臨時総会(1.22)、同市医師会役員改選(2.17)。
会長 鹿児島甲子之助、副会長 佐藤嘉久雄、理事 淺田新太郎・板坂 定・松森經夫、原口哲次・小林 茂・深町 朗・瀧口育之。
長崎県医師会役員改選(2.24)
会 長 |
淺田新太郎 |
(写真は、淺田会長)
|
副会長 |
村岡文之助 |
幹 事 |
鹿児島甲子之助、
板坂 定、松永房雄、
稲松志可太、本川杏仙 |
2.26事件起こる。
南松浦郡医師会役員改選(3.23)、会長 鍋島芳雄、副会長 坪内直道・小倉四郎吉、理事 太田達策・富井虎吉・浦 團一・梁瀬国彦・高岸作次。
第34回日本婦人科学会総会・長崎市で開催(4.2〜4)。
北高来郡医師会春季総会(4.16 諫早町公会堂)、会長 村岡文之助、副会長 城 定一郎を選出(4.16)。
天然痘、長崎市に発生(4.17)。
壱岐郡医師会総会・同学校衛生会(4.26 田河村牧山旅館)。
第15回全国聯合学校衛生総会(5.19〜20 勝山尋常高等小学校)。
県立五島高女寄宿舎内にパラチフス患者30人(6.28)。
長崎医大新学長に角尾 晋、前学長 高山正雄は九大総長に転出(7.4)。
西彼式見村に腸チフス患者21人(8.8)。
北松生月村に腸チフス発生、他に10人の疑い(8.15)、同村の腸チフス患者36人、佐世保海軍の赤痢患者は相次いで死亡(8.22)。
五島崎山村長手郷で腸チフス患者が死亡、戸口調査で10数人の患者がいることが判明(9.30)。
長崎医学会第13回総会(11.21 長崎市榎津町・長崎市医師会館)。
日独防共協定成立(11.25)。
翌12年度の予算案、歳出30億4000万円の中で軍事費が14億円を占め、軍国主義から軍事国家への道を選び、早晩、国の破滅は決定的となった。 |
12年
(1937) |
日華連絡船長崎丸の乗客に天然痘患者(2.1)。
壱岐東部地方に麻疹流行(3.4)。
北松浦郡医師会総会(3.12 平戸町公会堂)。
4.5母子保護法公布・保健所法公布(7.15施行)。
公立五島病院長 太田達策、診療中赤痢に感染し殉職、享年46歳(5.15)。
長崎港外端島炭坑に腸チフスが猖獗、6.25まで患者16人(6.26)。
日中戦争勃発(7.7)。
長崎市伝染病院を長崎市長崎病院と改称(9.1)。
県下の伝染病患者1350人(腸チフス445・赤痢363・疫痢298)と発表される(9.9)。
南松浦郡三井楽小学校に腸チフス発生(10.26)。
長崎医学会第14回総会(11.20 長崎市医師会館)。
この年、長崎・浦上両駅頭、出征兵士を見送りする市民で埋まり、熱狂的歓呼と旗の波でどよめく(市制50年史)。 |
13年
(1938) |
厚生省設置(1.11)。
佐世保市比良町にコレラ発生(3.8)。
長崎市医師会定時総会(3.28 市医師会館)、役員改選。会長 板坂 定、副会長 松森経夫、理事 今村豊光・高尾克巳・小林安太郎・杉田 博・木谷勝次・瀧口育之・三浦寛次。
長崎市医師会急療部の設置・国民健康保険法公布(4.1)。
長崎医大看護婦寄宿舎に疑似赤痢・北松潜龍炭坑にも7人発症(6.7)。
県下初の県立大村保健所開設(8.1)。
長崎市常磐町に恩賜財団済生会病院完成・開所式(9.10)。
長崎高商(長崎市片渕町)にパラチフス患者48人(10.−)。
長崎市内にコレラ患者3人(12.3)、天然痘患者も発生(12.7)。
上海から入港の「長崎丸」の船客に天然痘患者、直ちに女神検疫所に収容(12.16)。 |
14年
(1939) |
長崎市浦上水源池築造計画成る、昭16年度施工・19年度完成・総工費400万円(1.7)。
長崎県医師会総会・役員改選(2.26)
会 長 |
淺田新太郎 |
副会長 |
鹿児島甲子之助 |
理 事 |
板坂 定、今村豊光、松永房雄、
稲松志可太、村岡文之助 |
長崎医学同窓会上海支部成立(3.1)。
佐世保市で県医療組合総合病院地鎮祭・県産聯が設立(3.13)。
長崎市医師会定時総会(3.28 市医師会館)。
ノモンハン事件・関門トンネル起工(5.12)。
長崎医大附属臨時医学専門部設置(5.15)。
佐世保市の伝染病患者96名(赤痢32・腸チフス37・パラチフス4・ジフテリア14・猖紅熱5・流行性脳脊髄膜炎4)と発表(6.16)。
大村西小路に赤痢2人(7.6)。
北高戸石村に腸チフス患者8人発生(7.16)。
興亜奉行日・第2次世界大戦勃発(9.1)。
長崎市内に流行性脳脊髄膜炎6人発生、うち3人は死亡(7.13)。
県議改選、医系候補 稲松志可太(西彼)・本川杏仙(東彼)が当選、稲松議員、副議長に当選(9.25)。
長崎丸(日華連絡船)の船客に疑似コレラ患者発生(10.7)。
佐世保の腸チフスで市内は大恐慌、患者数は10.27現在87人(11.2)。
長崎港外端島、10月中だけで腸チフス患者は58人に上る(11.4)。
南高来郡山田村に赤痢患者35人(11.12)。
長崎医学会第16回総会(11.22 市医師会館)
傷庚年人小浜温泉療養開所式(12.10) |
15年
(1940) |
北松小値賀村に天然痘患者発生(2.15)。
長崎市長崎病院長 中山貞次郎、診療中に腸チフスに感染し殉職(3.11)、3.14葬儀(東小島町正覚寺)。
長崎県健康保険組合連合会の設立認可(3.12)。
長崎市医師会役員改選(3.26)、会長 松中房雄、副会長 今村豊光、理事 鍬先清太郎・時枝 茂・高尾克巳・原田永之助・井上三郎・木谷勝次・朝長雄三。
南高島原町に市制施行(4.1)。
国民体力法公布(4.8)。
国民優生法(5.1)。
北松浦郡各地に腸チフス患者が続出(6.21)。
東彼福重村に腸チフス26人(7.15)。
佐世保市赤崎方面に赤痢患者25人(7.25)。
佐世保市内の赤痢すでに40人(7.30)。
佐世保市に真性コレラ患者(8.16)。
壱岐全島に腸チフス蔓延、すでに36人(8.28)。
北高諫早町に市制施行(9.1)。
この日、三菱長崎造船所で戦艦武蔵(6万9000トン)進水(9.1)。
国友 鼎長崎医大名誉教授、長崎市会議長に当選(9.12)。
国民健康保険組合、8組合が新たに誕生、総員5万8000人になる(9.22)。
日本軍、北部仏印に進駐(9.23)。
日・独・伊三国同盟締結(9.27)。
長崎医学会第13回例会(医大南講堂)。
長崎医学会第17回総会(11.30 長崎市医師会館)。
長崎医大高南病棟(35床)は結核患者で満床状態(12.10)。 |
16年
(1941) |
太平洋戦争勃発の年。
長崎県医師会総会、役員改選(2.25)。
会 長 |
淺田新太郎 |
副会長 |
鹿溝上不二雄 |
理 事 |
松永房雄、今村豊光、板坂 定、
村岡文之助、稲松志可太 |
県医師会、各郡市医師会に対し「内務職員共済組合長崎縣支部ト、診療契約ニ關スル件」で通達(4.14)。
県医師会、「國民體力管理醫ニ關スル件」、「乳幼児髄力向上指導醫ニ関スル件」で郡市医師会へ通達(4.22)。
長崎医大報国団結結成式挙行(4.23)。
浦口淳一(西彼医師会)、県議補欠選に当選(6.15)。
関門トンネル開通(7.10)。
長崎県医師会、「國民健康保險診療契約ニ關スル件」で郡市医師会へ通達(7.18)。
県医師会、「召集解除者健康診断ニ關スル件」で郡市医師会長へ通達(7.24)。
長崎市会議員選挙で会員 原口一億・青木大勇・木谷勝次・今村豊光・国友 鼎が当選、国友 鼎、議長に当選(8.22)。
太平洋戦争勃発(12.8)。 |
17年
(1942) |
長崎県医師会、「刑務共済組合ト医療契約締結ノ件」で郡市医師会長へ通達(2.2)
。大村町に市制施行(2.11)。
国民医療法公布(2.25)。
長崎医大に東亜風土病研究所を設置(3.23)。
日本医療団令公布(4.16)。
国民体力管理医協議会(6.20 長崎県会議事堂)。
稲松志可太県議(西彼医師会)、県会議長に選出される(7.21)。
長崎県医師会、「醫業廣告ノ統制に關スル件」につき郡市医師会長へ通達(7.27)、再び「妊産婦ノ保健指導及ビ保護ニ關スル件」につき通達(8.10)。
夏・−長崎市内にデング熱が流行。県医師会、「優生手術ニ關スル件」で郡市医師会長へ通達(9.14)、更に「國民優生法施行規則一部改正ノ件」につき通達(10.22)。
国民医療令施行、従来の医師法など廃止され、県医師会長は厚生省の任命となり、官制医師会時代となる(11.1)。
長崎市医師会長 松永房雄、長崎県知事 山内義文より「長崎縣醫師會設立委員ヲ命ズ」の辞令を受ける(11.9)。
松永房雄、厚生省より「長崎縣醫師會長ヲ命ズ」の辞令交付される(12.3)。
長崎県医師会総会(12.23)。
会 長 |
松永房雄 |
(写真は、松永会長)
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副会長 |
溝上不二雄 |
事務理事 |
今村豊光 |
幹 事 |
板坂 定、五十嵐太一郎、
稲松志可太、梅江田純、
古屋野宏平 |
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18年
(1943) |
新令(国民医療令)による日本医師会設立(1.1)。
長崎市、国民体力法に基づき乳幼児の体力検査を実施(3.1)。
長崎市療養所を廃止、これを長崎医療団に移管(3.31)。 |
19年
(1944) |
長崎県医師会第3回定時総会(3.29)
米空軍B29・長崎を初空襲、死者13人・重傷26人(8.11)。
学徒動員令(8.23)。
10.−長崎医大第2病理学教授 吉田富三・“吉田肉腫”の作成実験に成功。
県立諫早・島原・小浜・平戸・武生水各保健所設置(10.1)。
長崎市、空襲時の医療救護機関を設置(12.17)。
救護本部1・救護所28・救護病院16・助産救護所8・特設救護病院5・移動班2、計60か所。構成人員、医師165人・歯科医師96人・薬剤師114人・看護婦118人・助産婦92人・保健婦25人、計610人。 |
20年
(1945) |
青木大勇(長崎医専初代皮膚泌尿器科教授)死去・享年68歳(1.5)。
佐世保空襲(3.28)。
長崎県医師会第4回定時総会(3.31)、この日、B29約30機・大村地区を空襲。
米軍、沖縄本島に上陸(4.1)。
長崎・佐世保両市、大規模な第2次疎開を実施(4.15)。
B29、長崎を空襲、死者129・重軽傷278(4.26)。
長崎港外を航行中の船舶、米艦載機の集中爆撃を受け、負傷者は掖済会病院に収容される(5.14)。
5・−長崎市の食糧事情深刻化。主要都市の医療機関はすべて医療団の運営となる。
6・−佐世保市医師会館、空襲で焼失、会員罹災38人・死亡3人。
長崎市、救護所編成を改正。救護本部を今魚町に置き、新興善国民学校など2ヵ所に救護所を開設、医師ほか総員327人を配置(7.7)。
長崎市に第3次空襲、死者22・重軽傷41・行方不明3(7.29)。
広島市に原爆投下、死者20数万人(8.6)。
(昭和20年8月9日11時2分、長崎に投下された
原爆の炸裂した瞬間と立ち上るキノコ雲)
「長崎市医師会史掲載使用」
長崎市浦上上空に原爆投下される(8.9 午前11時2分)。
死者7万3884人、重軽傷者7万4909人、長崎医大基礎教室・附属医院・医学・薬学専門部・東亜風土病研究所・厚生女学部・看護婦寄宿舎など倒壊・炎上、教職員・学生・生徒850余人殉難。陸海軍・各県派遣の応援隊到着、死体処理、被災者の救済、施設の復旧、救出救援にあたり、長崎市医師会員、配属の各救護所へ駆けつけ医療に挺身。秋月辰一郎医師、廃墟の浦上第1病院で診療開始。
長崎医大第11医療救護救援隊(隊長 永井 隆助教授ら12人)、市郊外三つ山地区で巡回診療(8.12)。
太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾)、15年戦争に終止符(8.15)。
滑石大神宮に収容中の角尾 晋長崎医大学長死去、享年52歳(8.22)。
続いて長崎県医師会長 松永房雄、2次放射能障害のため死去、享年54歳(8.24)。
新興善救護病院、長崎医大附属病院(臨時措置)となる(10.6)。
長崎医大、元大村海軍病院で授業開始(10.9)。
長崎軍政府管理の下、常磐町の元陸軍病院を長崎慈恵病院(現 長崎市民病院の前身)と改める(10.22)。
11・上旬・医大本部を長崎経専(片渕)から新興善国民学校に移す。
軍部医療施設を厚生省に移管し、国立病院・療養所とする(12.1)。
川棚海軍共済病院、国立川棚病院となる。
長崎医大学長事務取扱 古屋野宏平、故 角尾学長の後任として学長に任ぜられる(12.22)。 |