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○長崎養生所(ポンペ著『Vijf Jaren in Japan日本における五年間)』の口絵)
(長崎大学附属図書館医学部分館蔵)
長崎港を見下ろす小島郷の丘(佐古小学校所在地)にあった長崎養生所(HET HOSPITAAL TE NAGASAKI)はこの絵の中の日本国旗とオランダ国旗が翻る二つの建物で、1861年9月20日に竣工した。左手にある医学所(医学校)に所属する124ベッドの近代的西洋医学教育病院である。ポンペ・ファン・メールデルフォールトが幕府に病院建設を願い出て、松本良順らの努力によってようやく1860年4月23日(閏3月3日)に病院取建掛が任命された。良順はこれを喜び、節句の雛人形を戯れに写した。その絵が医学分館にある。奇しくも〃3月3日に養生所建設を許可した井伊大老が江戸城桜田門外で暗殺されている。ポンペはこの養生所で貧しい人は無料で診療し、貴賎を問わず、侍・町人、日本人・西洋人を区別することなく四民平等の患者中心の医療を行い、士農工商の差別がある封建社会で育った弟子達を驚かせ、彼らの意識は生まれ変わったように変革した。
○J.L.C.ポンペ・ファン・メールデルフォールト
(長崎大学附属図書館医学部分館蔵)
近代西洋医学教育の父ポンペ・ファン・メールデルフォールトは1857年第二次海軍伝習派遣隊の一員として1857年に来日、同年11月12日に松本良順をはじめ12人の弟子たちに医学伝習を開始した。この日に西洋医学教育が発祥し、長崎大学医学部が創設されたので、本年は150周年を記念して多くの事業が計画されている。ポンペの医戒に「医師は自分自身のものではなく、病める人のものである」という言葉がある。これを長崎大学医学部の校是としている。ポンペのような豊かな人間性と高い倫理観をもつ国際医療人が育ってほしいと願っている。
○P.F.B.フォン・シーボルト(1875年日本東京でキヨソーネの刻した肖像画)
(長崎歴史文化博物館蔵)
フォン・シーボルトは1823年に来日、1829年末にシーボルト事件のために国外追放された。老いたシーボルトが再来日したのは1859年であり、1862年に帰国した。30年ぶりに再会した彼の娘楠本イネは蘭方医としての修練を積み、ポンペに西洋医学を学ぶただ一人の女性医師に成長していた。
○鳴滝塾(成瀬石痴筆)
(長崎大学付属図書館経済学部分館所蔵)
フォン・シーボルトは阿蘭陀通詞の吉雄塾と楢林塾に出張教授していたが、弟子が増えると、鳴滝に民家を買い求めた。美馬順三、岡研介、高良斎が塾頭として指導し、フォン・シーボルトが出張教授する鳴滝塾に150名を超える俊秀が日本全国から集まった。隣接地にシーボルトを顕彰するための長崎市シーボルト記念館がある。
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○長崎出島之図/川原慶賀筆
(長崎大学附属図書館経済学部分館一武藤文庫一蔵)
シーボルトの専属絵師・川原慶賀が描いた19世紀初頭の出島図です。出島は寛永13年(1634)に築造された人工の島で、総面積が約10,000平方メートル、東西が約60メートル、北側が約175メートル、南側が約215メートルと扇の形をしていました。出島に滞在したオランダ人は、オランダ連合東
インド会社の会社員で、商館長(カピタン)の他、次席商館員(ペトル)、荷倉役、簿記役、書記、医師、調理師など、大体15名前後が滞在していました。建物は、カピタン部屋など一部を除くと、そのほとんどが日本家屋で、2階は住居、1階は倉庫を兼ねていました。
○才ランダ海軍軍医ポンペファンメーデルフォールト
(長崎県立図書館蔵)
○Vigf Jaren in japan(日本における5年間)の口絵
(長崎大学附属図書館医学分館蔵)
ポンペ(1829〜1908)は、オランダのブルッヘに生まれ、ユトレヒト陸軍軍医学校を卒業後、安政4年(1857)第2次海軍伝習隊の一員として来日、幕府が長崎奉行所西屋敷内(現・長崎県庁)に開設した医学伝習所で松本良順等多くの伝習生に医学を教育しました。その数は、帰国するまでの5年
間に133人、診療した患者は、14,530人にも上りました。
文久元年(1861)幕府に建議して開設に至った小島養生所は、わが国最初のヨーロッパ式の病院と医学校でした。
なお、この医学伝習所が長崎大学医学部と付属病院の前身で、ポンペが最初に講義を行った11月12日は、現在でも長崎大学医学部の創立記念日となっています。
(解説:長崎市立博物館長 原田博ニ)
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○日本の思い出/リンデン伯(オランダ国王侍従長)画
(長崎市立博物館蔵)
著書のリソデソ伯は、オランダ国王ウイルレム3世の特使で、安政2年(1855)に軍艦ケデ号で長崎に来航しましたが、その主な任務は将軍家定に献上されたスソビソ号(後の観光丸)を幕府に引渡すことでした。
リソデソ伯はそのため4ヶ月間長崎に滞在、その時の副象を「日本の思い出」としてまとめ、1860年にハーグのミーリング王立石版印刷工場で印刷、刊行しました。
(上から順に)
「植物園の奥の出島医師の館」は、現在のミニ出島の付近にあった商館医の住居を描いたもので、この当時の商館医は、ポンペの前任であったファン・テソ・ブルックでした。
「寺のある風景」は、出島から対馬藩の蔵屋敷(現・十八銀行本店)、新地、館内、さらには大徳
寺を描いたもの。
「ナガサキ」は、長崎港を描いたもので、左側、現在の権ケ崎辺に停泊している3隻のオランダ船の内の2隻がケデ号とスソビン号です。
「肥前藩主の来訪ケデ号艦上」はケデ号を訪間した鍋島直正を描いたものですが、有益な機械や書籍を買い漁る直正を、リソデソは「いかなる出費の前にもたじろぎません」と驚きをもってその感想
を記述しています。
○表紙背景「鼈甲」について
麓甲は、江戸時代の初期にその技術が中国より伝えられたものですが、現在でもその色彩がもつ工キゾチックさともあいまって長崎を代表する工芸品となっています。鼈甲は、最初、その製品がさかんに輸入されましたが、寛文8年(1668)その輸入が禁止されると、長崎でも主に櫛や簪など髪用具が製作されるようになりました。また、当時はそのほとんどが家内工業的なものでしたが、明治以降は専門店の数も増加、製品も宝船や鯉、宝石箱など大型の置物や飾額などが製作されるようになりました。近年、タイマイの捕獲の全面禁止によりその存続が危ぶまれていますが、伝統技術を守るための新しい時代にマッチした創意工夫が鋭意行われています。
(解説:長崎市立博物館長 原田博ニ)
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「夜のグラバー園内・旧グラバー邸」
(写真提供・長崎新聞社)
グラバー園は、南山手地区の外国人居留地内グラバー邸を中心に、長崎市が市内に点在していた由緒ある洋館を移転復元したもので、南欧風なリンガー邸、珍しい石造りのオルト邸、旧西洋料理店の自由亭など都あり、一角には歌劇「蝶大夫人」を演じる手捕環や作曲者プッチーニの像も建っている。
表紙写真は、夏季にかけ毎年夜間に開園されるライトアップした旧グラバー邸の一コマである。 同邸はイギリス人貿易商トーマス・グラバー氏の住宅で1863年の建造。ロマンチックな四つ葉のクローバー型コロニアルスタイルで現存する木造洋館では最も古い建物。
(国指定重要文化財)
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川原慶賀筆/唐商館絵巻一番
蘭船入港図
−長崎市立博物館所蔵−
川原慶賀は、通称を登与助、諱を種美、号を慶賀・聴月楼などといった。父香山も、 一子盧谷(通称登七郎)も画家であった。
慶賀は、この時期の長崎画壇を代表する画家、 石崎融思とは親しい関係にあったが、彼の生没年や事歴については現在でも不祥の点が多い。しかし、生年については、彼が万延元年(1860)に描いた長崎の永島家の肖像画に「75歳種実写」の落款があるので、これより逆算して、天明6年(1786)の生まれと推定されている。没年については、文久年間没、慶応年間没などの説があり、今仮に慶応年間(1865〜68)の没とすれば80歳前後で亡くなったことになる。
慶賀は長崎奉行所の犯科帳、文政11年(1828)12月、前年のシーボルト事件に連座して入牢の判決を受けているが(翌年正月末出牢)、この時の記録に「今下町出島出入絵師 登与助」とある。出島出入絵師というのがこの時代の慶賀の肩書であった。文政年間(1818〜30)の出島絵図の中に「画工部屋」というのが記されているが、出島出入絵師は出島の中にあって、出島に在住するオランダ人達の注文する絵を描いた人達である。慶賀が出島出入絵師として活躍したのは、文化年間(1804〜18)の後半からであったが、特に文政7年以降(1824)、シーボルトの依頼により多数の絵を描いている。しかし慶賀は、シーボルト事件により出島出入絵師としての資格を失ってしまった。
天保13年(1842)、慶賀は更に国禁の奉行所西屋敷や細川・鍋島西藩の紋所を描いた絵をオランダ人に渡したため、同年1月13日に江戸並長崎払いの刑を言い渡されている。
慶賀は、この事件の前後より、田口という描字を使用していたようである。この絵巻には田口之印の印章があるので慶賀晩年の作と考えられている。しかし、蘭館絵巻の蘭船入港図には、入港するオランダ船を望遠鏡でみているシーボルトやおタキ・おイネの母子と思われる人物が描かれているので、この絵巻に描かれている時代は、文政年間の出島を描いたと考えてよいようである。
1番蘭船入港図オランダ商館が平戸からこの出島に移されたのは寛永18年(1641)のことである。慶長7年(1602)、オランダは連合オランダ東印度会杜を設立し、ジャカルタ(後に、パタヴィヤ)に総督府を置き、東洋貿易にのり出した。長崎の人達は、この会社のことを「こんぱんや」とかこんぱにや」とか呼んでいる。
画面右側、入港しようとするオランダ船を物見台から見ている人物はシーボルト・タキ・イネの親子であろうといわれている。シーボルトは文政6年(1823)から同12年(1829)まで出島に滞在していた医者で、鳴滝塾を開き、多くの門人に医学を教授したことは有名である。娘のイネは文政10年(1827)の生まれで、日本で最初の西洋流女医(産科)となり、明治36年(1903)、77歳で没している。
((株)長崎文献杜発行「唐商館絵巻」解説から)
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シーボルトと紫陽花(オタクサ)
−長崎県立図書館蔵−
ドイツ生まれのオランダ商館医フィリプ・フランツ・フォン・シーボルトは、1823年に日本に渡来し、1830年に帰国、1859年に再渡来して、幕府の外交顧問となって江戸に滞在し、1862年にオランダに帰った。中央の絵像は初渡来時のものである。またアジサイの学名Hydrangea
Otaksaに長崎妻 楠本タキの名が使用されていた。
シーボルトが長崎に来てから、すぐに自分の研究対象たる動植物を筆写させる人物として、町絵師川原慶賀(登与助)を選び、長崎絵の画風による精密な写生法で描かせ続けている。ここに見える画は、ともに慶賀の筆になるものであるが、慶賀の生涯はシーボルトとともにゆさぷられていた。つまり江戸参府時には同行し、各地の風景や人物、生物を描き続けるのである。しかも1828年のシーボルト事件では、連座して長崎お構え(追放)となる。シーボルトが日本お構えとなったのと国籍の差があっただけである。晩年不遇で故古賀十二郎翁が考証されているが、田口姓となって横浜に没したとも伝える異説がある。
ともかく写生法に徹した慶賀は「慶賀写真草」を著わしたが、現在もシーボルトの持ち帰った慶賀の絵の多くはライデンの日本館に秘蔵され、公刊されていないままである。先年、オランダ政府と協力して蟹類図譜が出されたが、シーボルトが出版し尽せなかったコレクションの一つであった。シーボルトの初渡来後の胸像はライデン大学の校庭にある。その台石に「シーボルト」と片仮名で刻んであるが、ドイツ訓みのシーボルトとは刻んでないので、タキまたはイネあてシーボルト自筆書簡の署名の発音と同じであることが判明する。その胸像と最も近い肖像画がこの慶賀の筆にかかる絵像である。シーボルトのもう一人の絵師ド・ヴィレヌーヴのシーボルト肖像画よりも真に近いといわれる所以である。
先年、この画をもとに初渡来時のシーボルト像が石工により出島に刻まれたが、石工の技術の拙劣さのため似ても似つかぬ顔立ちである。いつか誰方か顔を入替えて頂きたい。
(解説:日本医史学会会員・長崎市医師会会員 中西 啓)
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「シーボルト往診之図」 大久保玉a
「シーボルト往診之図」は五島富江生まれの大久保玉aの筆であるが、玉aは長崎で幼少期を送り、1886年ころ上京、川端玉章の内弟子となり、平福百穂とともに書生をしながら近代日本画を学ぶ。帰郷後、一時、梅ケ崎女学校に教鞭をとり、門人に栗原玉葉がいるが、制作の傍ら画塾を開いて、後進を指導した。また東洋日之出新聞の客分として画才を発揮していたが、「シーボルト往診之図」は、明治中期以後の日本画壇に流行した歴史画の一つである。
1946年に没したが、その女婿松尾哲男も「若き日のシーボルト」と題する油絵(長崎市立博物館蔵)を描いている。
画題のシーボルトは、いうまでもなくドイツ生まれのオランダ商館医で、この絵もよき時代のロマンチシズムを持っている。(料亭 花月蔵)
(解説:日本医史学会会員・長崎市医師会会員 中西 啓)
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長崎港の図 円山応挙
長崎県立美術博物館所蔵 この絵は款記に寛政壬子仲夏と書いていることにより、寛政4年(1792)、円山応挙58才の作品であることがわかる。
原画は長崎港の大島瞰図である。この絵はその右下、1/4の大きさで、出島を中心に右下に長崎奉行所西役所(現在の県庁所在地)を描き、沖に一艘のオランダ船を配している。
原画を見ると画面左上に一艘のオランダ船が引舟に引かれて入港するところを描いている。
寛政頃はオランダ船は毎年7月頃1,2艘、東南季節風にのって長崎に入港することになっていたので、款記の仲夏に合致する。
出島の建物は細密描写で、日本医学界に貢献したケンペル(1690から1692)、シーボルト(1823〜1829)が滞在していた当時のたたずまいと全く同じである。
画法から見ると、応挙の若い頃、盛んに製作した眼鏡絵の手法(水を平行線で描く)が随所に見受けられるので、原画は応挙が若い頃写生しておいたものを客人の需めに応じて寛政4年描きあげたものと思われる。応需はこの間のいきさつを説明する。
写生画の大家円山応挙の傑作として日本美術史上有名な作品である。
(解説:長崎県立美術博物館 鴇田忠正)
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○長崎刺繍「雲竜図背飾り」
長崎刺繍は、長崎市東浜町裏丁の縫屋こと春口伊重が創製したと言われています。縫屋伊重はもともと、縫紋(縫取りした紋)や縫箔(金糸、銀糸を用いた刺繍)にすぐれてその名を知られていました。
明治のはじめ、一人の中国人が貨幣の面の鷲章を縫箔してくれるように注文に来ました。伊重はこれにヒントを得て、その技術を生かし、金糸、銀糸で国旗、写真、絵画、花鳥などを刺繍して製品化したそうです。ことに外国人に好評を呼び、船大工町や本籠町にも同業者が出てその名を高めました。
(長崎市歴史民族資料館蔵)
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○長崎くんち「傘鉾」
長崎刺繍は「長崎くんち」と関係が深く、出し物の先頭に立つ「傘鉾(傘の大きな飾り物)」の垂れに使用されたほか、衣装に施され、長崎くんちを彩る伝統工芸の逸品となっています。
なお、この絵は野田照雄画伯から特別に寄贈いただいたものです。
(野田照雄画伯 作・長崎市在住)
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○LOVE 出口喜男(恵山)
「LOVE」書が国際性を強める中で、「LOVE」をとおして世界の持つ「人間性」を感じてもらえるかどうか。愛は生命力のそして医療の根源であると思う。
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